セルゲイ・ラフマニノフの音楽
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生地は従来ノヴゴロド州オネグとされてきたが、近年の研究では同州セミョノヴォに生まれ、生後間もなくオネグに移ったとされる。裕福な貴族の家系の出身だが、作曲家が生まれた頃にはすでにかなり没落していたらしい。5歳の時に母から最初のピアノのレッスンを受けた。オネグは自然に恵まれた地方で、多感な少年時代をおくった。母は厳格で内向的な人柄、父は陽気であった。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移った。ペテルブルグ音楽院では、教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生であったが、12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院のニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。
モスクワ音楽院では、ズヴェーレフに厳しい教えを受け、アントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後には、ジロティにもピアノを学んだ。ズヴェーレフとは作曲をやりたいという意向で対立し、親戚のサーチン家に身を寄せることになり、将来の妻と出会った。アレクサンドル・スクリャービンとは同級であった。
18歳(1891年)にモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。ゴールドメダルは、通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。
同年ピアノ協奏曲第1番を完成。1892年には同院作曲科を卒業。17日間で歌劇『アレコ』を書き上げ、金メダルを受領。歌劇『アレコ』はチャイコフスキーの目にとまり、翌年(1892年)ボリショイ劇場で上演されたが、チャイコフスキーは同年に死去。この影響で、ピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲した。ちなみに、チャイコフスキーも友人の死を悼んで同名の曲を作曲している。
ラフマニノフの最初の交響曲第1番は1897年に初演されたが、ツェーザリ・キュイをはじめとする批評家に酷評された。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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